浜松 龍泉寺 接心会
2014年8月1日(金)~3日(日)、浜松・龍泉寺の接心会に行ってきました。
前夜(7月31日)から泊まり、4日(月)の昼頃帰京し、仕事に戻りました。
龍泉寺の接心会は、警策で打たれることはなく、
難しい仏典を使った提唱はなく、
提唱で義衍語録を少しは読むけれど「読む必要はない」と云い、
日常の中で「自分以外のものに関わる、それに教えられる」と云う、
公案はなく、独参はどんな質問をしても自由。
参禅している者どうしの会話も自由。風呂に行っても自由。
ものごころがついて、自分と他人という認識が芽生える。
ここから苦しみが始まる。
「自分=認識=考え」で生きるようになる。これは本当には生きていない。
ものごころつく前は、考えで生きていない。そのまんま生きている。
「どん」と机を叩いたら、その事実があるだけ。(公案があるとすれば、このひとつだけ。)
「 ものごころつく前の状態がなくなったわけではないでしょう。
ちゃんとあるでしょう。誰もが悟った存在なんですよ。」と、
哲玄老師はおっしゃった。
お釈迦様の悟りが、道元禅師、井上義衍老師、哲玄老師、哲秀老師と受け継がれ、
それをそのまま参禅者に伝えて下さっているのは、本当にありがたかったです。
2014年4月に5日間参禅した東京のT寺の接心会は、兎に角、厳しく、
警策で、肩が内出血し脹れあがり肥厚するほど叩かれ、
声が嗄れるまで、「無」と叫び声を上げ続ける。
修行らしいと云えば、修行らしいけれど、
「らしい」というのは、私のたちの考えに過ぎません。
ここ龍泉寺には、修行「らしさ」は、ありませんが、
お釈迦様の悟りをそのまんま受け継ぎ伝える、ほんものの老師が居られました。
こここそほんものの修行ができるところだと思いました。
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